ともだち100人できるかな?

新学期が始まり、少し緊張しながら出かけていったわが子。
新学年になりクラス替えがあって果たして何組になるのか、クラスメイトは誰なのか、担任の先生は誰なのか、そんな様々な感情が入り混じっていたのだろう。

この時期になると必ず耳にする「1年生になったら ともだち100人できるかな」という歌。「できるかーい!」と思わずツッこんでしまいたくなるほど、100人の友達を作るのは結構至難の業だ。
そしてそれを裏付けるように、私は結構人見知りでもある。

私は人口の少ない田舎町で生まれ育ったため、保育園から中学卒業までずっと同じ仲間だった。
1学年1クラス、もちろんクラス替えもない。名札やノートに書く〇年〇組の「組」に「1」以外中学卒業するまで書いたことなどない。新学期の緊張感は担任の先生が誰になるのか、というくらい。

修学旅行も合唱発表会ももちろん卒業式も27人ずっと一緒だった。だから友達100人など天文学的数字に近いのだ。

小規模には小規模のよさはある。気心知れた仲間との学校生活は安心感もあるし、近所づきあいが多かったので、友達というより家族同士の交流も盛んだったような気がする。
しかしその暖かくも小さなコミュニティでの人間関係は、高校に入学するととてつもなく大きな壁となった。

他校から集まる高校というコミュニティは、「みんな一緒・いつも一緒」だった私にとってニューヨークの五番街にいるような人種のるつぼなのだ。ま、ニューヨークには行ったことないけど・・・(笑)
友達作りにこんなに苦労するとは思わなかった。しかも毎年クラス替えもあるし。もちろん担任も変わる。

しかし私と正反対なのが、わが子である。どこでもだれでもすぐ友達になる。
物怖じしない性格は小さい頃から片鱗を見せていたが、小学生ともなると恥じらいや自我が誰とでも気軽に友達になるというミッションを邪魔してしまうことがある。

しかし、わが子の場合、新学期初日こそ多少の不安と緊張を抱えて出かけていったが、「〇〇ちゃんと〇〇ちゃんと同じクラスだったー。あと〇〇ちゃんもいたー。」と満面の笑みで学校から帰ってくるなり堰を切ったようにクラスの話しをし始めた。

はぁ、、お気楽ゴン太くん。。そこで私は本人に単刀直入に聞いてみた。
「ねぇ、どうやったらたくさんお友達を作れるの?」しばらく考えた後彼女はこう答えた。
「んー、、。いつの間にか友達になってるからわかんない。お話ししているといつの間にか。かな。

一緒に遊ぼうって誘えばもうお友達だよ。」と。あなた、どんだけコミュニケーション能力高いんだよ!
しかしなんとも的を得た真っ当な答えだった。

高校時代苦労した友達作りも社会人になり、仕事を通して「人との関わり」を経験する中で常々思うことがある。
円滑なコミュニケーションというのは、「相手に安心感を与える」ということだ。
見た目や話し方だけで「好き・嫌い」と判断せず、「そんなびっくりするような格好をしているアナタに私はとっても興味を持っていますよ~。」という安心感。

「なんだか超ネガティブシンキングな話し方ですが、そんなアナタの話し、ちゃんと聞いてますよ~」という安心感。きっとこの相手に対して徹底的に興味を持つ。という視点が、子どもには備わっているのかなぁ。と感じる。

社会で人と繋がる唯一の手段はコミュニケーションだ。「聴く・話す」だけではなく、表情や声のトーン、メールの文字だったり、絵文字だって、その行間や改行の仕方もすべてはコミュニケーションと言われる。

モノを作る作業においてもコミュニケーションは必要不可欠だ。どんな商品を、どんな形にして、どんな人に買ってもらうか、そのためにどんなパッケージとプロモーションが必要か。
あらゆる視点と可能性を、それに関わるすべての人とのコミュニケーションから探っていく必要がある。

今ここにある「ランドセルラスク」も、どんなコミュニケーションから生まれたのか。
そんなことを想像するだけで、商品の向こうに見える作り手の様々な思いが垣間見えるようである。
最後に谷川俊太郎のこの詩を100人友達つくるなんて絶対ムリ。と思っていた高校時代の自分に贈りたい。

「ともだちって かぜがうつってもへいきだっていってくれるひと。 
だれだってひとりぼっちではいきてゆけない。 ともだちってすばらしい。」